とある夕日の眺め方

 最近、ロックバランスというものにはまった。ロックバランスをする人をロックバランサーと呼ぶらしい。いわゆる、岩を積んでアートを作る芸術家だ。そんな方々の作品をSNSで見つけた途端、自分もやってみたくなってしまった。

 積み木と”積み岩”の違いは、一つ一つのサイズや形に決まりはなく、そこに平面はないということ。同じ形をした岩が二つあることはあり得ないし、地面が水平であるとは限らない。垂直に積めば絶対に倒れないという保証がされない中で、いかにバランスを保てる軸を見つけるかといった作業に趣を感じる。出来上がった作品の非自然的なシルエットには芸術性を感じることもあるから、作っている間だけでなく作った後も楽しめる。

 声を大にしてこんな趣味を語るのは少し恥ずかしがるべきかもしれないが、とりあえずやってみると面白いのでぜひ騙されたと思ってやってみてほしい。特に晴れた日か少し雲のある日の夕方から日が沈むまでの時間にやってみることをお勧めする。この時間は時計の針が一番ゆっくり進む気がするし、岩のシルエットと夕焼け空のコントラストがとても綺麗に映る。

 夕日が沈む一時間くらい前を目指して、海岸沿いに向かう。少しずつ暖かくはなってきているが、春が来たとはいえないのでまだ手が悴む季節だ。かなり着込んできたけれど、海風は体感気温を五度くらいは下げる。手袋なしで岩を触れる季節が待ち遠しい。テトラポッドの残骸が横たわっている。今日はここで日が沈むまでロックバランスをすることにしよう。日が暮れるまであと数十分はある。

 普段は大抵どこかに腰掛けて何もせず日が暮れるのを待つ。僕にとってそれは夕方の過ごし方の一つだ。時間をかけて夕日を見ていて飽きがこないものかという疑問はわからなくもない。常に何かしていないと落ち着かない性格の僕も、ベンチに座ってゆっくり空を見上げるなんて以前では考えられなかった。今日は空が綺麗だなと言って携帯のカメラを開くことはあっても、そこに30分も40分もとどまる人の方が少ないだろう。

 ゆっくりと夕日を眺めるのは、本を読んだり映画を見たりする鑑賞という点では似ている。飽き性の天敵は読書に違いないし、映画のエンドロールを最後まで見られない人も多いなかで、日が沈むまでベンチに座っていられない人はもっといるだろう。コンビニに行くついでに見上げた夕日でもいいけど、せっかちな人ほど一度止まって、呼吸を落ち着かせて、周りを見渡してみるといいと思う。何かをしながら映画を見ている時は大抵その面白さは半減するものだ。

 テンポよく視聴覚にたくさんの情報を流し込んでくる映画を見れば、何をせずとも頭の中では勝手に空想が行われる。登場人物が何を考えているのかを予想したり、意外な展開に驚いていると時間はあっという間に過ぎていく。本当に面白い映画が何回見ても面白いのは、人間が一回の視聴で認識できる量を遥かに凌ぐ情報量がその映画には含まれているからだ。大抵の映画は、一人の人間が一回の視聴で全ての情報をかっさらっていけるようには作られていない。

 映画鑑賞が視聴覚を活用した受動的な暇つぶしだとすれば、夕日鑑賞は視聴覚を遮断した能動的な暇つぶしだ。夕日は映画よりも相対的に小さな情報量がゆっくりと移り変わっていくから、その一瞬一瞬に加わる新しい情報が少ない。夕日を眺めるということはつまり、一旦コンピューターの操作を停止し、スクリーンセーバーをオンにするようなもので、視覚情報に惑わされずに自分の思うまま頭を使えるようになるということだ。

 情報量の少なさはあくまで映画との相対的な量であって、実際に長時間空を眺めていると感覚を刺激するものは案外多い。雲の流れ、夕焼けの色、太陽の位置、影の伸び具合、空の明るさ、刻一刻と変わっていく情景を感じることができると、逆に日常に溢れた情報量の多さに驚く。鳥の群れの移動、高層ビルの窓が点灯していく様子、遠くでなっているサイレンの音、意外と大きいのに意識しないと聞こえない波の音。五感に働きかけようとすると手持ち無沙汰に見えて意外と忙しい。

 生活の大半を大学の課題に費やしていると、長時間ラップトップと睨めっこすることになる。iPhoneやiPad、MacBookに囲まれた生活では、慢性的なブルーライト疲れや情報過多に陥る。目の保養という意味でも、一度頭の中を空っぽにするという意味でも、夕日は頼もしい味方だ。最近頭の使い方が受動的であることが多い気がしていて、能動的に自分の頭で色々と考える時間は大事にしたいと思っている。

 日常生活では意外と自分自身のことを考えたりする時間はない。何もせずただ考える時間を作るのは自分自身を保つのにかなり有効だと思っている。僕の場合それは夕日を眺めるときで、できれば課題のことは考えず、ブログに何を書こうかとか、将来のことを想像したり、思い出に遡ったりする。でも、あまりに疲れ過ぎていて何も考えたくないというときもあるし、夕日を見ているだけでは飽きてしまう日だってある。ロックバランスはそんな時にお勧めするオプションのひとつだ。

 土台が斜面であっても、積み上げる岩の上にさらに重い岩を乗せれば崩れない。岩二つではぐらぐらしていても三つあれば均衡がとれることもある。丸い岩や表面がツルツルの岩だと、他の岩と引っ掛かる所がなくて難しい。暖かくなって素手でできるようになればもう少し器用にできるとは思う。積んでは崩れを何度か繰り返し、大体十個くらい積み上げる間に空はオレンジ色に染まっている。作品が出来上がる頃までに、背景は準備万端というわけだ。

 パシャッ。


 呼吸を整えて、心のざわざわしたところを排除しないと、岩は積み上がってくれない。身体をリラックスさせて緊張を解かないと、岩はすぐに崩れてしまう。でも、夕日を見ていると自然に気持ちは落ち着くし、体はいい具合に脱力するから不思議だ。少し余韻に浸っていると、日が沈む。いよいよ寒くなってきて家路を急ぐ。お腹も空いてきた。毎日は流石に来れないけれど、一週間に一回くらいのペースでは通いたい場所だ。

 ロックバランスは誰でもできるし、お金もかからないし、楽しいし、いい暇つぶしになると思う。どうでもいいことかもしれないが、人生無駄なものをどんどん排除していくと逆に何を残していいのかわからなくなる。時には無駄なことをやってみると意外な発見があったりして面白い。今日は夕日の眺め方 – ロックバランス編 – ということで意外なふたつの相性の素晴らしさをわかってもらえた辺りでおしまい。

 上流にある岩はゆっくりと下流に運ばれながら、他の岩とぶつかり合う中で次第に丸みを帯びて行く。うねり曲がった川の形も深く抉られた峡谷もまた、流れる水が時間をかけて作ったものだと、理科の時間でそう習った。人間も同じように、社会経験という摩擦が加わって、エゴとかいう己の角が削られていくのだと思う。ダイヤモンドが研磨によって輝くように、それはもしかすると、大人になるということなのかもしれない。確かに、尖ったものは相手を不快にさせ、何かの拍子に危険物となりうるから、取り払ってしまった方が安全だ。ただ、最近ロックバランスをしていて思うのは、少し角があるくらいの方が人間も面白いのでは、ということ。下手に丸みを帯びていない岩の方が、ユニークな形が見ていて飽きないし、なにしろ積みやすい。人間関係の構築にも同じことが言えないだろうか。丸みを帯びた人間同士は何だか噛み合わない気がする。

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