ハルの珈琲

 香ばしい匂いがして目が覚めた。今朝もハルは寝起きが良くない私のために珈琲を入れてくれたようだ。いつもハルはスプーンなんか使わずに、目分量で豆を挽く。そんな適当感あふれるハルの珈琲の淹れ方は、案外侮れない。珈琲の美味しさがわかるようになったのは実はハルのおかげで、今ではすっかりその虜になってしまった。数年前まで私はブラックなんて飲もうとも思わなかったのに。

 「おはよう。珈琲入れておいたよ。」

 私の両親は毎朝珈琲を飲む人たちだった。出勤前の忙しい朝でも、豆から珈琲を挽いてドリップしては、「今日は少し薄かったね」とか「これくらい濃い方がいいね」などと2人で話すのだ。特に、新しい豆を買ってきた時に「前回のより酸味が強いね」と言い始める彼らの感覚は、幼い私には全く理解できなかった。珈琲とは、常に「真っ黒で、熱くて、苦い」飲み物に思えたからだ。

 そういえば、中学校の職員室はいつも珈琲の匂いがした。吹奏楽部に入部した一年目、私は部室の鍵を借りに職員室に入ることが多かった。職員室に入る時は決まっていつも身構えてしまって、ドアを叩く前に一呼吸を置く。もう何度も繰り返しているはずの決まり文句を復唱してから、コンコンコンとノックする。職員室に充満していた珈琲の匂いのせいで、今もふとあの時の緊張感を思い出すときがある。

 高校時代は甘い珈琲を好んで飲んだ。カフェオレとカフェラテの違いもわからないまま、とりあえず甘い珈琲を飲んだ。炭酸飲料は苦手だったし、いちごミルクはなんだか子供っぽいような気がした。珈琲という響きがお洒落に聞こえて、私は大人を気取った。落ち込んだ時、考える時、ゆっくりする時、私の手元にもいつも珈琲があった。珈琲の味なんか知らないくせに、お昼休みに購買の自販機で買うコーヒーは私の青春の味になった。

 ハルとは大学で同じ研究室に配属になった同期だ。私たちの教授は毎度研究室に入って来るや否や、珈琲を淹れるよう私たちに頼んだ。次第に私たちは少しずつ美味しい珈琲の淹れ方を覚えていったが、同期の中で教授一番のお気に入りとなったのがハルの淹れる珈琲だった。いつも適当なハルがどうして美味しい珈琲を淹れられるようになったのか、私は今でも不思議になる。なにしろお湯の入れ方がわからないというハルに電気ケトルの使い方を教えたのが私だからだ。

 たまに研究室で味見をしたが、ハルの珈琲は確かに美味しかった。ハルの淹れる珈琲は澄みきったクリーンな味わいで、ブラック珈琲は飲めないという私の先入観を一瞬で吹き飛ばした。ただ、マグカップ一杯分のブラック珈琲を最後の一滴まで飲み干すことはできず、私はしばらくミルクと砂糖を手放せなかった。ハルは、落ち着いていて、大人びていて、何かとかっこよかった。コーヒーを嗜むという事実がそれを助長したのかもしれないが、私はそんなハルに憧れていた。

 10代の時に思い描いた22歳の自分はもっと大人びているはずだった。それに比べて自分はちっともあの頃から変わっていない。選択肢の幅が広いのが大人だとすれば、私は砂糖を加えるかそのままで飲むかを選びたかった。人生の甘さと苦さを知っているのが大人だすれば、私は珈琲もブラックで飲めるようになりたかった。大人になるということがどういうことなのか、私にはわからなかったが、ハルのようにコーヒーを嗜む大人にはなりたくて、私は内心焦っていた。

 コーヒーをブラックで飲めるようになったきっかけは、大学卒業を目前に控えた頃、私の誕生日だった。その日はバイトだと言っていたはずのハルが、両手にケーキを抱えてやってきて私の部屋のベルを鳴らしたのだ。続いて研究室の仲間や数少ない私と親しくしてくれている友達が駆けつけてくれて、みんなで私の部屋の小さなテーブルを囲んだ。私のために3時間かけて手作りしてくれたケーキを、ハルの淹れてくれた珈琲と一緒に。

 ケーキを食べながらだと、私はハルの淹れてくれた珈琲に砂糖もミルクも入れる必要はなかった。むしろない方が甘さと苦さのバランス取れていて、ケーキと珈琲、お互いの味わいが引き立っていた。「コーヒーってこんなに美味しいんだ」私はこの時初めてそう思えて、私にも珈琲の美味しさがわかる瞬間が訪れたことを喜んだ。自分の好きな人たちと、いちごのショートケーキを食べ、珈琲の味を知った、22歳の誕生日。思い返すたびに今でも感慨深くなる1日だ。

 人生って甘いだけじゃない。時には苦さを味わう時もある。辛い時や悲しい時は喜びや楽しみを感じるためにあるように、苦みもきっと甘みを感じるためにあるのだろう。涙の数だけ強くなれるよと誰かが言っていたように、苦みが味に深みをもたらすのだろう。

 私は今朝、珈琲を飲みながら、そんなふうに思う。最近は仕事で上手くいかないことも多いけれど、上手くいくために必要なエッセンスだと思えば、今日も頑張れる気がする。

 

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