今回は僕が保育園児だった頃の記憶に遡ってみる。今でもはっきりと思い出せるイベントは意外とたくさんあるけれど、その中でも割と鮮明に覚えている方の記憶。その日はみんなでお絵描きをしていて、お題は確か「夏一番の思い出」。
僕の実家は田舎の小さな街の端っこにあったが、お祭りがあるとみんなで街中へ出かけた。お祭りはは僕の地元でも毎年開催されている恒例行事のひとつで、昼過ぎになると駅前の屋台が賑わい、夜になると花火が上がる川沿いにたくさんの人が集まる。屋台で好きな食べ物を買うのは、もらっても使わないお小遣いの数少ないの使い道で、花火大会は保護者同伴とはいえ夜遅くまで外出できる唯一の口実であった。初めてそのお祭りに参加したのは僕が保育園児の時だった。
初めてみる花火のインパクトはとてつもなく大きかったのだろう。夏一番の思い出に花火大会を選んだのも全く不思議ではない。自分らしいと感じるのは、「打ち上げ花火の絵」を描いたのではなく、「打ち上げ花火と、それを見上げている人たちの絵」を描いたところ。花火だけが印象に残っていたのではなく、目の前にいた大勢の人も記憶の中では重要だったからだと思う。空に打ち上がる花火に加え、大勢の人たちも描きたかった保育園児のこだわりが微笑ましい。
しかし、僕がこの出来事を今もなお覚えているのは、花火が綺麗だったからでも、たくさんの人を見て驚いたからでもない。もう生涯忘れることはないんじゃないかというぐらい、脳裏に刻まれている言葉がある。それは絵を描いているときに先生からもらったとあるコメントで、個人的にはある意味花火よりも衝撃的だった。それがなければこの絵も、忘れ去られたたくさんの記憶の中に埋もれていただろう。
「あら、顔を真っ黒に塗っちゃったの?肌色の方が良かったんじゃない?」
先生は僕の描いた絵を見て言った。保育園児の描く絵は非現実的な色で塗られたものも多いのだろう。黒で塗りつぶされてしまった人間の顔を見て先生はそう言った。今なら先生の気持ちはもちろんわかるが、保育園児だった僕に他人の視点を想像するなんてできるわけがない。自分で決めて塗った色を否定されたことがめちゃくちゃ悔しかったのを覚えている。
(髪の毛は黒じゃないのかなあ。)
先生は、花火を見上げている人たちが全員こちらを向いていると思ったのだろう。実際、そう描いた方が誰が誰なのかがわかりやすい、明るい絵になったと思う。でも、僕が描いたのは花火を見上げる人たちを後ろから眺めた絵だ。見たものをできるだけ忠実に再現しようとすると、そういう絵になると思う。今度花火を見る機会があれば確認してみて欲しい。同じ方向の花火を見上げる人が見せるのは必ず後頭部であって顔面ではない。
もちろん当時はそんなことをいちいち考えてはいないが、思い出せる情景が花火を見上げる人の後ろ姿だったという事実にそって絵を描けば、先生が認識した顔というのは僕にとって髪の生えている後頭部であり、黒で塗りつぶして当然だったのである。肌色の髪の毛をした人なんて見たことがないし、全員ちゃんと髪の毛は生えていたのに、と混乱した記憶はある。想像力が欠如していたり、相手の視点に立ってものを考えることができないと、他人と何かを共有することは難しいのだ。
先生に黒で塗らない方がいいと言われ、後頭部に色を塗るのをやめてしまった作品がこちら(笑)。
肌の色は肌色で塗りなさいと教えられてきたが、大抵の肌色のクレヨンは実際の肌の色よりずっと明るい。小さい頃、見たものと同じように描きたいというこだわりが強かったため、肌の色を肌色で塗ることには抵抗があり、肌色よりもオレンジや茶色のクレヨンの方が肌の色に近いと思っていた。正直どっちで塗ったっていいし、極端な話紫色で塗ったとしても宇宙人みたいにみえて一つの絵としては面白いように思えるが、幼かった僕にとっては忠実に再現することが最重要だったらしい。
そんなこともあって、肌色のクレヨンはいつも使わない色、あるいは仕方なく使う色として僕の中で認識されていった。肌色のクレヨンを肌を塗るために使わなければ、肌色の出番はいよいよない。クレヨンに限らず、少し大きくなって絵の具を使うようになってもそれは同じだった。クレヨンや絵の具セットに入っている貴重な12色のうちの一つが肌色であるのはどうしても違和感だった。
クレヨンの箱には、肌の色はこの色で塗っておけば大丈夫というような暗黙の了解が含まれているようであった。肌の色を簡単に塗ることができるようにという配慮は、保育園時や小学生には必要なのだろうか。それはなんだかお節介であるような気がして、人間の肌の色はこうでなくてはならないと暗示されているようにも感じた。そうでなければ、12色相環の色をそのまま12色の画材に使わない理由はどこにあるのか。
僕の抱えていた違和感が少しずつ言語化されて行く中で、肌色という表現はやはり適切とは思えなくなってきた。日本人の肌の色に共通した色であったことから肌色と呼ぶようになったのかもしれないが、肌の色はもうその人の所属や出身を表さない。人種によって肌の色は大きく異なり、また同じ人種間でも個人によって肌の色は違う中で、肌の色とは一概にどう言った色を指すのか。黒い肌の日本人だってたくさんいるし、白い肌の人も同じようにいて、そこに違和感はないのだろうか。
たまに薄橙色と書かれたクレヨンを見かける。肌色と呼ぶ際のコンプライアンスを考慮すれば、その方がいいのではないかと思う。肌色という表現には、文字通り肌の色という意味が潜んでいるように思えてならない。肌の色が薄橙色でない日本人マイノリティを間接的に差別していないだろうか。今の時代、肌の色はその人の所属や出身を表すものではもはやない。薄橙色という名前があるのならそちらを使ったほうがいいと思う。
単民族で島を占有する国に生まれれば人種間交流の機会は極めて限定的であり、多くの日本人にとって人種差別とは歴史の教科書に出てきた単語の一つに過ぎない。人種差別を歴史上の過ちだとする認識だけがすり込まれ、人種差別がどのように横行されたかを理解するには及んでいないのが現実ではないだろうか。アメリカに来る前の僕は、人種差別を過ちとする認識が現代の人類に共通してあると思っていたので、まさか現在進行形の社会問題であるとは捉えていなかった。
実際はもちろんそうではない。意識的な人種差別の表面化は少ないが、無意識的な人種差別はまだ多くの人々の中に潜在している。ある日スーパーで、頭にスカーフを巻いた黒人女性とすぐ隣のブロンドヘアの白人女性のそれぞれのレジに並ぶ列の長さを比較したとき、黒人女性の方が明らかに少なかった。公園にいるホームレスに黒人が多いのは、本当に彼らの働く能力が低いからなのか。銀行強盗を描いたハリウッド映画で黒人俳優が主演として起用されているのは果たして偶然だろうか。
アジア人差別もこのコロナ騒動で浮き彫りになってきている。トランプ元大統領がコロナウイルスをChinese Virusと呼んだりしたのは記憶に新しい。そういえば去年の3月ごろ、道を歩いていると、車に乗った親子に ”Hey yo coronavirus! Go back to your country!” と中指付きで叫ばれたこともあった。今月はアトランタで6人のアジア人女性が殺されたり、ニューヨークで高齢の女性が襲われたりしたことをきっかけに、世界中で “STOP ASIAN HATE” 運動が熱を帯びてきている。
アジア人はできるだけ肌の色を隠して出歩いた方がいいというニュースを見た。できれば髪の色なども隠して人種がわからないようにするのが最善だという。しかし、果たしてそれで皆が安全に暮らしていける社会になるのだろうか。臨時的な対応とはいえ、被害者側の生活が制限されることがあっていいものなのか。まずは、差別する側の問題責任が問われるべきであることに否定の余地はない。
白人至上主義による黒人の奴隷化や迫害は歴史が裏付けており、その非人道的であった事実は社会に認知されている。一方で、欧米人とアジア人の歴史的な付き合いはそれに比べるととても短い。もしかすると、黒人差別には社会的な制裁があるけどアジア人差別は許されると思っている白人も中にはいるのだろうか。近年のアジア圏に見られる経済成長や欧米への移民増加が欧米諸国には目の敵になるのかもしれない。
また、アジア人は大人しいから理不尽なことをしても反発してこないという偏見が差別を助長しているということもありそうだ。6人のアジア人女性を殺害した男に対して、「今夜は彼はついてなかった」とコメントした警察署長がいたことから、そんなことが伺える。そういう意味では、黒人差別よりアジア人差別の方が深刻なのではないかと最近思うようになってきた。今見えているアジア人差別は氷山の一角に過ぎないのかもしれない。
日本で暮らす多くの人はアジア人差別に関しては盲目であるように思う。差別を受けることはもちろん、自分がマイノリティとして生活すること自体、日本ではあまり経験できない。実際に道端でアジア人差別を受けたときに、どう発言すべきか。アジア人差別を目撃したときに、どう行動すべきか。アメリカではそういう事態が日常に起こりうるからこそ、人種差別について考え、自分の信念に基づいて行動できるようにしたい。
在米アジア人は護身用にスタンガンを持ち歩くべきだというインフルエンサーの発言をSNS上で見かけた。いくらアジアンヘイトが流行しているからとはいえ不安を煽りすぎではないかと思ったが、外出時に自分よりも体格の大きい人たちが武装して襲ってくることを想像すると、むしろスタンガンなどでは心細いような気はする。身の安全の確保のためには銃の携帯もよしとする、なんともアメリカらしい考え方だ。目には目を、歯には歯を、は正義となるか。
相手が暴力に走るならこちらも同じことをしていいという理論は避けたい。戦争がなくならないのは報復合戦になるからで、暴力に暴力で対抗するのは問題解決にはならない。では、平和的な対処方法にはどんなものがあるだろう。人種差別反対のデモ活動に参列するべきか。真っ黒の画像をBlack Lives Matterのタグとともに投稿すべきか。広告モデルを特定の人種だけで起用しない企業のそのポリシーを称賛すべきか。薄橙色を肌色と呼ばないことは人種差別反対へとつながるだろうか。
人種差別が悪いことだという認識は誰しもが持ちながらなお摩擦火が燻っている状況で、人種問題はもはや ”Stop Asian Hate!” と叫ぶことで解決はしないだろう。なぜなら、それは意識的に行われているのではなく、人々の無意識の中で燻り続けているからだ。人種差別をやめよう、というけれど、では具体的にどうしたらいいのか。自分が人種差別に加担しているという認識がもしかすると彼らにはないかもしれない。
人種差別が日本であまり見られないように感じるのは、そもそもの差別の対象となるマイノリティが存在していないからかもしれない。もし仮に明日から日本がアメリカのような移民大国になったら、日本でも差別が横行するかもしれない。人種差別はいけないという認識があっても、日本人がよく口にするガイジンという表現が差別の火種になる可能性だってある。自分は差別する立場にないと決めつけることもまた、無意識的な差別に盲目になる原因の一つだと思う。
人種差別による悲惨な事件を勉強するが、それを繰り返さないために僕たちはどうしたらいいのか。人種という違いはさまざまな違いをもたらし、言語や風習、価値観や文化の違いは全て壁として立ちはだかる。その壁を見ないふりをすることもできるだろう。壁の向こうに行かない選択もできるだろう。でもそれだと、いざ自分とは違う人間が目の前に現れた時、その間にあるすべての違いに対処できるのかどうかは疑問だ。
人間は自分のしていることが正しいと思いたい生き物。比較対象があれば、その関係性において優劣をつけたがる。人種差別を知る第一歩は、自分にも差別の意識があるかもしれないという可能性を考えること。そして次に、相手を知ろうとする勇気は絶対に必要だ。理解できないことがあると、人は不安や恐怖心を覚えるのは事実であるように思う。違い、に関してはまた別の機会に書いてみたい。
相手の視点に立って考えること、違いを受け入れる勇気を持つこと、このふたつだけで少しはマシな世界になるのではないか、という綺麗事をほざいたところで今回はおしまい。
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Instagramで友達がとある投稿を共有していた。その写真には一頭のパンダが描かれていて、その下にこう書かれていた。”Destroy racism, Be like a panda, He’s black, He’s white, He’s Asian. 「人種差別をぶち壊せ。パンダのようになろう。彼は黒くて、白くて、かつアジア人だ。」その通りだなあ、と思った。人種差別に関連した投稿を頻繁に見るようになって、自分にも何かできることはないかと思い、今回は人種差別について自分が思うことを少し書いてみた。きっと一人一人が自分のできることをやるというのが大事だと思う。