高校三年の冬に、学校の文集に掲載する学級紹介文を、代表で書かせてもらったことがある。最近携帯のメモを見返している時に見つけて懐かしくなった。短めの作文だけど、当時を思い出すには十分な気がする。たまに難しい言葉を使っているあたり、当時は尖っていたなあと思う。
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クラスというのはまとまっていた方がいいのか。そもそも、まとまった、とは一体どんな状態を指すのか。18歳ともなれば、皆自分の色を見つけて飾るだろうし、全員が同じ景色を綺麗だという方が稀覯だ。皆同じであることがまとまってることの定義だとするならば、我が37ホームルームも無論、まとまっているとは言えない。
山田は生粋の剽軽者へと化ける能力を持ち、慶末の諧謔を弄する回答には座布団三枚。比類なき豆知識を披露する馬場には毎度独走を許すしかなく、青柳の描く絵は折紙つきだと言わざるを得ない。これらはほんの一例に過ぎず、私たちは皆全員、それぞれ輝くオリジナルの何かを持っている。
ただ唯一の共通点は、受験という門を今、一緒に潜ろうとしていることである。
「毎日学校へ来ること」は私達のモットーだ。朝の「挨拶」元気に姿勢良く。「交通安全」はテスト後に気の緩みがちな私達の常套句。ロッカーの「整理整頓」は教室の雰囲気づくり。山内先生はそんな当たり前のことを口を酸っぱくして教えてくれた。
3月になっても良礼着席の徹底を呼びかけたのはうちの法月くらいだろうし、平野は毎限爽やかな号令をかけてくれた。私達のクラスには、山内先生の言葉が至る所に垣間見える。
同じ空間で過ごすということには、それ相応の責任が伴う。私たちは皆ライバルだけど、仲間でもある。当たり前のことを当たり前にやることが、高校生活を全うすることであり、仲間のためにできることである。
私は個性的で独創的で才能豊かなみんなが好きだ。でもそれ以上に、みんなで作り上げた37ホームルームが好きだ。まとまっているかは保証できない。けれど、私たちは最後まで「全員」で戦う。
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みんな今何しているんだろう?元気?